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2011.07.06

やりがい

「やりがいはありますか?」
学会なんかで就活中の大学生と飲んだ時なんかに、よく聞かれます。

なかなか答えづらいですよね。
自分は今の仕事はやってて楽しいし成長につながるし、社会にも
貢献していると思っているので「やりがい」を感じているのだけど、君が
ぼくの立場だったとして、「やりがい」を感じるかは、分からないなぁ。
というようなことを答えます。

思うに、「やりがい」は仕事そのものに付随しているのじゃなくって、仕事と人とがマッチ
したときに生まれるものではないでしょうか?

「大学の教授」や「研究者」、「技術者」なんかは僕にとってはやりがいがあるけど、
「政治家」や「宗教家」にはやりがいを感じません。でも、「政治家」の仕事に興味と
価値を見出して、やりがいを感じて取り組む人もいるでしょう。

やりがいのある仕事とない仕事があるのではなくて、自分がその仕事にやりがいを
見出せるかどうか、だと思います。そう考えると、これ、人に聞いてもしょうがないよね。

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2009.02.01

食べたい欲

病気はなんとか治ったようです。
今日、友人と鍋パーティーをやって、まあまあ食べられたからたぶんもう大丈夫。

一昨日のほぼ日に、ハッとすることが書いてありました。
もう記事は消されていて正確ではないけれど、こんな感じのこと。

 「食欲」とは別に、「食べたい欲」というのがある。
 食欲は肉体の要求だけど、食べたい欲は心の要求で、何らかの心の欠けを
 食べることで満たそうとしている。


ううむ。精神的な楽しみを他のもので満たすことができないから、
食べることで心が満足することを求めているのか?
読書やスポーツもやっているけれど、心から楽しめていないというのか?
だから、食に楽しみを見出そうとしているのか・・・・?

でも、スポーツするとおなかもへって、その後でたべるごはんは普段よりおいしいし、
本を読みながらお菓子を食べるのも、両者の楽しみを増幅しあっているように思えるし、
「食べたい欲」は、心の欠けを埋めるためだけではないとも思うんですよね。
でも仕事が忙しい平日なんかは、食べることしか楽しみの時間がないから、結果的に
「食べたい欲」が心の欠けを埋めることになってしまったりもします。

ぼくの中での「食べたい欲」に対する心構えとしては、

「食べたい欲」を無理に押さえ込むのではなく、他のいろいろな欲も受け入れられる
ように、時間をやりくりする。


これでいきます。

2009.01.18

センター試験・・・から話がずれてしまいました。

昨日今日と、センター試験だったようですね。
電車の中で、予備校生らしき人が試験の話をしていました。

ぼくが試験を受けたのはもう10年以上前の話になります。
そういえば、試験が終わった後、友人と電車で帰っている時に、
「めちゃめちゃ頭のいい人たちの会話をしようや」
ってことになって、
「あー1問だけまちがえた!98点やなー」
とか、
「あちゃ~、こりゃあ760点いかんかもしれん~」   (※昔は800点満点でした。)
とか、
言いながら帰った記憶があります。
いま冷静に考えると、本当に頭のいい人はそんなことは人前で
言わないと思うので、周囲の人にはばればれだったのだと思いますが、
当時はそんなばからしいことを喜んでやっていたのでした。

でも、試験当日にそんな遊びが出来るくらいだったのだから、
あまり真剣ではなかったというか、気持ち的に、それほど切迫してはなかったのでしょう。
前日もよく眠れたし、当日も特に緊張することもなかった記憶があります。

そもそも、いままでの人生、そんなに、命をかけるほど根をつめてものごとに
あたったことがあまり無いような気がしてきました。
入試もですが、大学の試験や就職活動でも、会社に入ってからも特に緊張する
こともなくのらりくらりと。
頂点を目指すことはなく、九分目くらいを目指して、結果、八分目くらいになっても
まあ、こんなもんだろー、と思ってしまうのです。
妥協、なのかなやっぱり。

いま、伊坂幸太郎の「砂漠」を読んでいることもあり、それでいいのかなぁ・・・と
自問自答しています。
目の前のことに全力投球する西嶋くんはやっぱりかっこいいんだよなあ。

もんもん。




2007.07.18

テレビニュースに関するこむずかしい話

またしても、ほぼ日がいいこと書いてます。

糸井重里とは、とても感覚が合います。
ぼくが言いたかったことを、わかりやすく伝えてくれるのです。
かゆいところに手が届くかんじ。

「今日のダーリン」で触れられている、テレビのニュースに関しての
コメントは、まさにぼくがつねづね考えていることでした。

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2007.01.22

納豆データ捏造

納豆ダイエットを紹介した番組が捏造だったそうだ。


僕としては、「ああそうか」くらいであまり驚かなかったし、
納豆は好きだからダイエット効果がなくて残念だったなぁと
思っているくらい。

しかし世間の声は違うらしい。
テレビ局にクレームの電話が殺到しているとのこと。
ネットの記事でも「信用していたのに、裏切られた」とか、
「たくさん買いだめしてあったのに」とか書いてある。
こういう記事をみてちょっと笑ってしまったのだけれど、
言っている本人たちは大真面目のようなのだ。
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2006.12.12

心の余裕

今日のほぼ日に、下のような言葉が紹介されていました。

「あてずっぽうに生きて行くのが人間じゃないんですか。
 計画をたててだめになる可能性と、
 計画なしでうまくいった場合と、どっちが多いですか」


小林秀雄のことばだそうです。
正直、ちょっと意外です。
あんな精緻で厳密な文章を書く人がこんなことを考えているとは・・・。

でも、心の奥底でこんなのんきなことを考えているくらいのほうが
他の人の文章を読んだときに鋭い感性を発揮できるのかもしれません。
楽天的なほうが心に余裕を持てると思うんです。


上の言葉、とても共感してしまうんですが、
よく考えてみると、技術者としては、あるまじき態度ですね。

でも、このくらいの気持ちの余裕を持って取り組む方が、
うまくいくこともあるのかもしれないな。
だって小林秀雄もそうなんだから、と自己弁護。



2006.04.13

一人で走ること

一人で走るのが、好きだ。

何人かでしゃべりながらというのもいいけど、
一人で走るのは、なんだかものすごく孤独で、
川とか、田んぼとか、町とか、
そういうものの大きさを感じながら、
自分の小ささを感じながら、

なかなか変わらない風景に
にんげんの、自分の足の遅さを感じながら、
文明の利器の便利さを感じながら、

普段の生活で忘れそうになってた
謙虚さを思い出しながら走る。

それでも、30分も走ると風景はがらっと変わって
ちょっとだけ自分の、にんげんのすごさを
感じることができて、好きだ。

2005.10.20

やすくに

首相は首相として靖国神社に行くべきではない。
個人としてならいくらでも行けばよい。

「個人として」とは明言してないけれど、
「内閣総理大臣として」と言わなかっただけでも一歩進んだかな。

靖国神社は宗教なのだから、個人としては宗教の自由を尊重すべき。
中国や韓国も個人の宗教の自由には立ち入るべきではないと思う。
「個人として」を明言していたら、の話ね。

ただ、国内外からここまで批判があっても、「個人として」を言えない背景には
なにがあるのだろう。テレビでも全然追求しないのはなぜだろうか。

2005.01.06

人に優しく、己に厳しく

小学校1,2年の頃の話。
国語の授業で、教科書の文章の暗記をやっていた。

前の日に2,3ページほどの範囲を指定して、その部分を読んで、暗記するのが宿題。次の日に先生が数人の人に分担させて、その部分を読ませる。
どこに当たるかわからないので、結局範囲全体を覚えないといけない。
助詞ひとつも間違ってはいけない。「へ」と「に」が違ってもだめ。

というようなものだったように、覚えている。
でも、いまになってよくよく考えてみると、これは小学2年生にはちょっときつい。
低学年なので字数は少ないといっても、教科書2,3ページを一晩で丸暗記である。

もしかしたら、先生が言っていたのは、
「暗記するつもりで読んできてね」という程度のものだったのかもしれない。
ただ、皆の前で、暗記してきた内容を教科書無しで読んでいたのは事実。

僕は暗記も得意だったし、たいていのときは覚えていた。他の教科の宿題もあったはずだから、そんなに時間を割いてはいないと思うけども、とにかくちゃんと覚えてきていた。


そんなある日、普段は2,3ページのはずが、12,3ページが暗記範囲になった日があった。これも今思えば、先生が言い間違ったとか、授業ペースが遅れていて、苦し紛れとか、まあそういう理由なのだと思う。とにかく普段の数倍の分量が宿題として出た。この日のことは、僕も覚えているし、それ以上に母親がよく覚えていた。

母親は、2年生の子供にこんなたくさん覚えさせるなんて、無茶だ!と思ったらしく、僕にも「さすがにこんなにたくさんは、覚えなくていいよ。」ということを言ったらしい(あまりおぼえていない)。しかし、当時の僕は言うことを聞かず、夜遅くまで泣きながら教科書を読み続けて、結局は覚えてしまった(泣きながら暗記したのはよく覚えている)。


こういう昔話を母親としていて、気持ちを改めた。
中学、高校、大学と進むにつれて、「妥協」ということを覚えてしまった気がする。
自分のなかで「やる」と決めたことに対して、また、他人から「やりなさい」と言われたことに対しても、自分で勝手に「このくらいでいいや」とか「ここまでやると言ったけれど、この程度で十分だろう」と言い訳をして、中途半端に、適当に片付けてしまっていることが多い。


昔の自分は違ったのだ。まだ、自分でこれをやる、と決めることはなかったかもしれないが、他人から言われたことは、律儀に、実直にやっていた。それが当然だった。

現在の職場のボスがよく言う言葉に、「やると決めた/決められたからには、きっちりそれをやる!」というのがある。同じことだと思う。
自分の中で決めた「やらねばならない」こと、他人から決められた「やらねばならない」ことを、勝手に「やったほうがいい」や「やらなくてもいい」に変えないこと。それが大事なことだ、と思う。

「人に優しく、自分に厳しく」今年の目標です。
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